King's Ring

− 第7話 −





猫となったリョーマは、人間に戻るまでの間は本当に猫としての生活をしていた。
最近のお気に入りは祖父の部屋の縁側。
庭に接しているこの場所は、ぽかぽかとした日差しでいっぱいになるので、天気の良い日は何時間もここでのんびりとしている。
稀に祖父が部屋にいる時に行けば、リョーマの為にふかふかの座布団を用意してくれ、こっそりと高級にぼしをくれる。
手塚家でのリョーマの待遇はかなりのものだった。
「リョーマちゃん、お昼よ〜」
「にゃ〜」
彩菜が呼べばリョーマは耳をピンと立てて、声のする方向へ歩き出した。

昼食はダイニングからリビングに移動する。
どうやら彩菜は自分が椅子に座っていると、食べているリョーマの姿をあまり見られないとの理由で、リビングで食べるようにしていた。
「どう?美味しい?」
「にゃー」
彩菜の作る料理はどれもこれも初めての味だったが、どれもこれも美味しい物ばかりだった。
「リョーマちゃんはいつも美味しそうに食べてくれるから嬉しいわ」
出した物は残さずに食べるし、話し掛ければ必ず応えてくれる。
特に気に入った物があれば彩菜の足元をポンと叩き、お代わりを強請る。
家族よりも反応が良いので、ほとんどがリョーマと食べるだけの昼食なのに、朝晩よりも少し豪華な物になりつつあった。
もちろん、猫が食べてはいけない物は少しも入っていない。
「…にゃ?」
ふと、鼻にふわりと優しい香りが届く。
ご飯の匂いと違う、自然な香り。
その正体を確かめようと、室内をきょろきょろと見渡せば、テレビの上に花が飾られていた。
薄いピンク色とオレンジ色の花。
「どうしたの?あら、お花が気になるのかしら」
リョーマが食事から違う物に意識を奪われているのに気付き、箸を置いて立ち上がると、細身の花瓶を手に取り、リョーマに前に差し出す。
「倒さないでね」
彩菜に言われて、リョーマは顔を近付けると、鼻をヒクヒクと動かして優しい香りを楽しむ。
暫くは花の香りと可憐な姿を見つめていたが、まだご飯の途中だったのを思い出し、花を見るのをやめた。


「うにゃっ!」
「あらあら、電話ね。リョーマちゃんは電話だけは苦手なのよね」
昼食が済み、彩菜が洗濯物を取り込んでいると、家の電話が鳴った。
テレビや冷蔵もそうだが、家電製品なんて物はリョーマの住む世界には無かったなので、電話機の音が鳴る度にいつもリョーマはビクッとしていた。
「ちょっとお出掛けするからお留守番していてね」
もちろん彩菜が出たのだが、掛けて来たのは彩菜の知人で、今から外で会うらしくリョーマに留守番を頼んできた。
猫のリョーマが留守番なんて出来るはずも無いのだが、誰もいないよりもかなり心強いもの。
「にゃー」
にゅ、と爪を出して大きく鳴く。
リョーマもお世話になっている以上、もしも不審者が入って来たら、この牙と爪でやっつける気でいた。
「うふふ、頼もしいわね」
エプロンを外し、少し化粧を施してから、戸締りとガスの元栓を確かめる。
「それじゃ、よろしくね」
靴箱から外出用のパンプスを取り出して履くと、見送りに来てくれたリョーマの頭を撫でて玄関から出て行った。
ガチャリ、と鍵の掛ける音が聞こえると、ハイヒールの音が遠ざかって行った。
しん、と静まった廊下を歩き、先程まで食事をしていたリビングに入ると、ソファーの上にぴょんと飛び乗る。
(…花…そういえば誰が庭の花に水をあげてくれてるのかな?)
あの花を見ていて急に思い出した。
リョーマは自分の世界にいる間、育った場所の庭に咲いていた花の世話をしていた。
水を与えれば、きれいな花を咲かす。
まるで花が礼をしているように、蕾はリョーマの為だけに膨らみ、美しい大輪を咲かせる。
枯れても次々に蕾が付き、色とりどりの花が咲く。
(…それに、あの人が好きって言ってくれたから……でも、あの人って誰?)
ぼんやりと浮かんだビジョンは深い靄に隠れて誰なのかわからない。
(はぁ、やっぱり駄目か…)

1日の内でこうして一人きりになる時間は数時間あるか無いかで、こういう時に何をするかは本当に悩む。
テレビの電源の付け方も、ドアの開け方も、新聞を捲るのも誰の手も借りず自分で出来るようになったが、それもどうかと悩む。
(ま、のんびりしてよっと)
呪いを解く方法は色々と思い付くが、どれもこれも正解では無かったし、もう戻らなくてもいいかもしれない。
猫の時でも人間の時でも、自分を守ってくれる人は傍にいてくれる。
夜は必ず手塚のベッドで寝ているが、落ちないようにしっかりと抱き締めてくれる腕がとても気持ち良い。
抱き締めて、何度もキスをして眠る。
あの熱烈な告白の夜から、ベッドの中はただ眠るだけの場所では無くなった。
(でも本当に誰に魔法を教えてもらったんだっけ?思い出したいのに……誰、だっけ…)
気持ちの良いソファーの上で考え事をすると、どうしても眠くなってしまい、リョーマは知らず知らず眠りに付いていた。


『リョーマ君は僕に相応しいと思うんだけど?』
水の王はその穏やかな笑みを消し、鋭く刺さるほどの眼差しを目の前の人物に向けていた。
『リョーマはお前には渡さない』
しかし、王の前にいる人物は背中を向けていて顔が見えない。
『君がたとえ……の王でも、リョーマ君は誰にも渡さないよ』
(…何これ?夢?)
対峙する2人をどこかで見ている。
近くにいるのに何故か遠いし、2人の周囲の風景はぼんやりとしていて、どこなのかはっきりとしない。
『ねぇ、リョーマ君。君は……よりも僕を選ぶよね?』
自分に話し掛けているのに、水の王である不二はこちらを全く見ていない。
(後ろ?)
視線の先を見極めて振り返ると、そこには…。
(…俺?)
床に伏している自分の姿があった。
身動きが取れないのか、悔しそうに唇を噛み締めている。
『…ま、君が僕を選ばないのなら、こうするだけよ』
不二の右手が何かを払うように動くと、床に伏している俺の服が無残にも切り裂かれ、上半身も下半身も肌を露出していた。
『不二、貴様っ』
『次は服じゃなくて、リョーマ君自身だよ』
もう一度同じように手を動かすので、床にいる俺もこの光景を見ている俺も目を瞑ってしまった。
(……どうなった?)
恐る恐る瞼を開ければ、背中を向けていた人物が自分を庇うように覆い被さっていた。
不二の攻撃をまともにくらったのか、背中には肩甲骨から腰まで裂傷が出来ていた。
『…ぐっ…』
傷から血が溢れ、床に落ちる。
『……っ』
俺が涙を浮かべながら叫んでいる。
叫んでいるのに、重要な部分が聞こえない。
(誰?この人…何の王なの?名前は何?)
俺を助けてくれた人は、何かの王であるのは間違い無く、しかも俺にとって大切な人のはずなのに、どうしても思い出せない。
『ふふ、君がリョーマ君を庇うのは計算済みだよ。こうでもしないと君の動きを止めるのは無理だからね』
カツン、カツン、と靴の音を立てながら不二が近付いて行くと、俺の視界が変わった。
今までは二人と自分の中間にいたのに、今は三人の真横にいる。
『水の王、何でこんなっ』
『何でって?そんなの決まっているじゃない。昔から目障りなんだよ……は。だから僕の前から消えてもらうだけ』
俺を見る目は至極優しいのに、怪我をしている王には冷たい。
不二は何かの呪文を唱え始める。
どこかで聞き覚えのある呪文。
『……の王、これで永久にさよならだよ。リョーマ君は僕が大切にするから心配しないでね』
にっこりと笑っているのに、目だけは最後まで笑っていなかった。
『…リョーマ……』
俺を守ってくれていた王は、水の王の呪文の最後の一句が終わると同時にその姿を消し始めるが、最後の力を振り絞って俺に向けて何かの呪文を唱えていた。


(…なっ、今の何?)
目を開けると、そこはリビングのソファーの上。
夢なのか何なのか定かでは無いが、目で見える自分の身体は猫のままなので、寝ていた間に見ていた光景なのは間違い無い。
壁に掛けてある時計の音だけが聞こえるのに、今は自分の心拍数の方がうるさい。
(…あの人は…思い出せなかった王…)
後姿しか見られなかったが、どこか見覚えのある姿だった。
(今のって、もしかして俺の記憶?…でも何で今になってこんな…)
思い出せなかった記憶。
それも誰かと関わりのある記憶に間違いは無い。
思い出そうにも、何かに阻まれるように激しい頭痛や吐き気に襲われ、思い出す事を諦めていた。
(…俺…)
思い出したら何かが変わってしまうかもしれない。
手塚との関係も変わってしまうかもしれない。
今の自分にはそれが1番怖い。
だから思い出す必要が無くなったのに、今更になって記憶がよみがえる。

いうなれば扉の鍵は外されたのだ。
そして、扉は開き中に封じ込められていた記憶が激流のように頭の中に流れ込む。
(でも、これで…繋がった)
ソファーから飛び降り、大きな窓の前に立つ。
燦々と降り注ぐ日差しが眩しくて、リョーマの眼は更に細くなる。
(国光…)
この世界で生きて行きたいと心底思ってしまうくらいに、好きになってしまった人。
家族の前でも言葉遣いや行動はどこか他人行儀でしか無いのに、自分といる時は違う。
楽しい時には笑い、優しい笑顔を見せてくれる。

1度も伝えた事は無いが、実は初めて見た時からどこか懐かしいと感じていたところがあった。




話も中盤か?